2009年 10月 19日
イタリアのかかと、プーリアにある人口3000人ほどの小さな村、 オルサラ・ディ・プーリア。 数年前に4ヶ月ほど滞在して、 すっかり気に入ってしまった小さなこの村。 イタリアに着いたとき、まず思った。 「オルサラにいつ"帰ろう"か?」 プーリアの大きな町、フォッジャ駅から出発するオルサラ村行きのバスの、 2年前とまったく変わらぬ時刻表を見て、 おもわず、にっこり。 自分の国以外にも、 いつでも帰れる小さな村がある。 待っていてくれる人たちがいる。 そんな小さな幸せがふと心にやってきて、 カラカラに乾いたプーリアの小麦色の平原を マッチ箱が風に吹かれて、コロコロと転がるように走る青いバスの中で、 またにっこり。 「オルサラ村に帰ってきたんだ。」 ジュゼッピーナ ぶどう畑を横目にしながら、オルサラ村が見渡せる 高台にあるペッペのホテルに荷物を置いて、湿気のない夏の終わりの空気を吸うと まず思う。 ”ジュゼッピーナに会いに行かなくちゃ!” ビリッキーナという言葉は、イタリア語で、いたずらっ子という意味で、 小さな子供に使うことばだけれど、彼女を見たとたん、 いつもこの言葉が浮かんでくる。 たとえ、76歳の白髪のシニョーラだとしても・・・。 サチコという日本語が、いつまでたっても、全然覚えられなくて、 いつも、チキート!で笑ってごまかす。 スラングもバシバシ使って、決して、”お上品”なシニョーラとはいえないけれど、 オルサラ村に来ると感じる、人の温かさの代表選手なのだ。 人なつっこさと、寛大さ。 毎日のように、お昼ご飯を食べにいって、 決まった時間になると、テレビをつけて、昼ドラを一緒に見る。 まずは、ちょっと登場人物の込み入ったイタリア移民の歴史ドラマからはじまって、 「これって、どこの国の話?」 「アルゼンチンよ。アルゼンチンのコーヒー畑の話なのよ」 しばらくすると、どう見ても、舞台が、ブラジルに思えて 「これって、アルゼンチンの話じゃなかったっけ?? でも、ブラジルブラジルっていってるんだけど・・・」 「アルゼンチンだか、ブラジルだか、そんなの知ったこっちゃないよ。 どこの国だって、そんなのどうでもいいのよ!」 その番組のあとは、こてこての不倫ものがはじまり、 2人で、黙って、けっこう真剣にみたりする。 テレビの中で、浮気された女性が、 「ひどい・・・もうあなたとは、やっていけないわ!」と泣き叫ぼうものなら、 「そうそう、こんなヤツ、捨てたほうがいい」 と 1人ぶつぶつ相槌を打つのを、聞いている方が、実際のドラマより面白い。 だいたいこのあたりで、私は、睡魔に襲われて、 「寝なさい、寝なさい」と2階に追い立てられて、 ”お言葉”に、すっかり甘える。 村を一緒に歩いていたら、 「ジュゼッピーナに、バダンテ(介護をする人)が、来たらしい」 といった人がいたとかで、 2人で、おおいに、うけまくって、後々まで、笑いあった。 「私より元気なのに、いったいどこを介護するのよ!」 そんなジュゼッピーナの料理は、 手作りのトマトソースが基本の、野菜中心の オルサラ村の伝統的な家庭料理。 日常で、パスタを打つ貴重な年代でもあり、 若い人たちが、豆料理を倦厭するイタリアで、 昼ドラを見ながら、毎日変わらぬ伝統料理を食べている年代なのだ。 ジュゼッピーナ2 ジュゼッピーナは、生粋のオルサラっ子で、 オルサラの農家の家に生まれた。 「豚も馬も、みんな一緒に住んでた。 ベッド高さが今より、高かった、だって、ベッドの下には、鳩を飼ってたんだからね」 お姉さんが2人、お兄さんが、1人。 でも、このお兄さんは、20歳の若さで、死んでしまった。 20歳のころ、オルサラの若者、ジョバンニと出会い、22歳で結婚。 「どこで、ジョバンニと知り合ったの?」と興味深々の私。 「道でよ!」 「道で! (そりゃまあ、簡単だこと・・)」 「今の若い子は、やりすぎよ。 昔は、恋人が家に来れるのは、父親が許したときだけ、 家の中でも、離れて座らされたものよ。 外で会っても離れて歩いたし、 家に帰るのが、ちょっとでも、遅くなると、父親にベルトで打たれたものだわ」 1956年に長女のカルメラが生まれて、 4年後に、だんなのジョバンニは、ドイツに出稼ぎに。 当時(今もだけれど)、オルサラ村に仕事はなく、 それから、15年間、ジョバンニはドイツで、大工として働いた。 オルサラ村に帰って来たのは、夏とクリスマスの休暇だけ。 でも、その間に、しっかり長男のアントニオが生まれた。(ビンゴ!) 「人生で、電車に乗ったのは、一度だけ。 だんなにアントニオを見せに、ドイツまで行ったのよ。 私はドイツなんで、遠いし、よくわからないし、いやだいやだっていったんだけど、 近所の女友達が、私が切符も用意するし、電車も調べるから、行こう行こうっていってね。 彼女のだんなも、ドイツに出稼ぎにいってたからね。 小さいアントニオを連れて、3人でドイツまで行ったのよ。」 人生で、ほとんどオルサラ村を離れたことのないジュゼッピーナ。 はじめての電車がドイツまで、しかも子連れとは、大冒険だったに違いない。 15年間も、1人で子育てして、家庭を切り盛りしていたジュゼッピーナ。 だんなの出稼ぎしか、 現金を稼ぐ選択肢がなかった当時の女性は、 今と違って、四の五のいわず、人生を丸ごと受け入れるという肝が据わっていたのだろう。 そんなジュゼッピーナ、 今は、4人の孫と、2人のひ孫のおばあちゃん。 南イタリアの強い親戚関係の例にもれず、 お祝いごとには、どーんと派手にお金を使う。 「孫の結婚式には、1000ユーロ、(14万円弱 ) 洗礼式には、250ユーロ、(3万4000円 ) 18歳の成人のお祝いや、大学の卒業記念、 来年は、もう1人の孫が結婚するし・・・・ お金をためておかなくっちゃね」 年金700ユーロ(10万弱)のお年寄りの身には、 けっこうな金額に思えるけれど、そこは、ケチらないのが、南イタリアの風習なのだ。 ひっきりなしに近所の友達がやってきて、 「チキート、何を食べたか彼女に教えてあげなさいよ」 私をせっつく。 そこで、私が覚えたてのオルサラ方言で料理名を言おうものなら、 もうみんなで大爆笑。 こんなたわいのないことで、何回も、そしていつまでも、笑えるのが、 ここにいると、自分が自然でいられるわけなのだ。 「私はカルメリーナって名前なんだけど、 別の名前は、アメリカーナっていうのよ」 毎日のように来るジュゼッピーナの友人のカルメリーナは、 お父さんが、オルサラ村から、アメリカに出稼ぎに行ってすぐ生まれた。 すぐに、オルサラに戻ってきたから、ほとんどオルサラ人なのだけれど、 アメリカ国籍を持っていることが、ちょっとした自慢。 そんなカルメリーナは、ジュゼッピーナの50年来 (半世紀!)の友人で、 「ジュゼッピーナとは、一度もけんかをしたことがない。」 ひょうひょうと笑う、やわやかな銀髪のふくよかな90歳。 ときどき、人生を深刻な顔して過ごしている自分に気がつくと ジュゼッピーナの家の夏の開けはなれた扉を思い出す。 買い物袋をぶら下げて、 みんな勝手に入ったり出たり。 お昼ご飯のメニューを聞いて、 「さて、そろそうちも・・・・・チャオ」 と出て行く。 「忘れないでね、いつでも、ここに来ればいいんだからね」 最後に、ちょっとまじめな顔をして、しっかり抱きしめてくれたジュゼッピーナに 料理をはじめ、教わったことは、たくさんあるけれど、 この開け放された扉を思い出せば、すぐにすべてを理解できる。 開け放された扉は、結局のところ何もしない。 ただただ、流れに沿えばいいのだ。 受け入れて、見送って・・・。 だから、また来たくなる。 そんなオルサラ村のジュゼッピーナの家。 (つづく・・・)
by andosachi
| 2009-10-19 00:45
| プーリアの日々
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